2016年12月31日土曜日

 

スクーリング情報(4)【ことばとコミュニケーション】

【ことばとコミュニケーション】課題図書紹介     担当:小林 睦 先生

「ことばとコミュニケーション」に関する書籍として私がみなさんに推薦したのは、以下の2冊です。(1)平田オリザ『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』(講談社現代新書、799円)、(2)子安増生『心の理論 心を読む心の科学』(岩波科学ライブラリー、1512円)


 (1)は「青年団」という劇団を主宰する劇作家・演出家の本です。著者の平田オリザ氏が書いた台本は、中学国語の教材にもなっているので、皆さんも接したことがあるかもしれません。この本には、その彼が、色々な小学校や中学校で演劇ワークショップを行なうなかで、気づいたことや考えたことが記してあります。具体的に言えば、本書には、コミュニケーション能力を過剰なまでに求める、現代社会の風潮に対する疑問が示されています。日本のコミュニケーション教育では「わかりあう」ことに重点がおかれているが、むしろ「わかりあえない」ところから出発するコミュニケーションが大事なのではないか。もし「心からわかりあえなければコミュニケーションではない」とするなら、そこでは、心からわかりあう可能性のない人を排除する論理が働くのではないか。しかし、実際には「心からわかりあえないんだよ、すぐには」、「心からわかりあえないんだよ、初めからは」と筆者は述べます。簡単に「わかりあう」ことを前提としない。その点で、本書は、コミュニケーション能力の必要性を説くばかりの多くの書物とは異なる視点から、私たちが考えるための示唆を与えてくれる書物です。

(2)は、他人の心を理解する仕組みについて、認知科学的な観点から書かれた著作です。議論の素材となるのは、自閉症児の研究が明らかにした様々な事柄です。自閉症は発達障害の一つであり、かつて主張されたように、子供本人の努力不足や母親の育て方などが原因で生じるものではありません。今日では、自閉症は脳の中枢神経の機能障害により生じると推定されていますが、詳しい原因はまだわかっていません。自閉症の特徴は、(a)他人の気持ちを理解することが苦手である、(b)ことばの発達が遅く、身振りや表情を使うのが得意でない、(c)同じ動作を反復して行なうことを好み、新しいことをやりたがない、といったものです。こうした特徴をまとめるならば、自閉症の人は、言語的あるいは非言語的なコミュニケーションに問題がある、と言うことができます。これらの研究から明らかになってきたことは、他人の気持ちを理解するためにはどのような心の働きが必要か、ということです。コミュニケーションが苦手であるのはなぜなのか。その仕組みを明らかにすることで、本書は、コミュニケーションの意味について、新たな側面から光をあてた書物だと言えるでしょう。

投稿日:2016年12月31日カテゴリー

2016年12月26日月曜日

 

スクーリング情報(3)【ことばの習得と教育】

課題図書紹介【ことばの習得と教育】(担当:渡部友子先生)

1.『外国語学習に成功する人、しない人』白井恭弘著

「何年も勉強しているのに英語が使えるようにならない」という挫折感を多くの日本人が抱えています。しかし一方で、英語を使って国際的な舞台で活躍する人もいます。成功と挫折を分ける要因は何なのでしょうか。そして、どういう学び方をすれば、英語が身につくのでしょうか。この本は、これらの問いに答えてくれます。

「これさえやれば英語が話せる」というような宣伝を見聞きすることがありますが、実は科学的根拠に基づいたものは少ないのです。外国語習得の研究者である著者は、これまでの研究で分かったことを紹介しながら、学習のコツを具体的に提示しています。「なぜ」を理解し「どう」すればいいかが分かれば、学習はしやすくなると思います。この本は、大学入学後も継続して学ぶ英語と、新たに学ぶ第二外国語の学習を支える一冊です。


2.『「達人」の英語学習法』竹内理著

「外国語は幼いうちに始めた方がよい」とよく言われます。実際、中学校で学び始めて最終的に高いレベルの英語力を手に入れる人が少ないことは、調査でわかっています。しかしこのことを逆に見ると、少数だが存在する、とも言えます。「達人」と呼ぶべきその少数派に、この本は注目します。彼らは一体、どのような学び方で英語をマスターしたのでしょうか。

第1~2章は、外国語習得に影響を与える様々な要因(年齢や性格など)について、研究で判明していることを紹介します。この部分は、白井氏の著書と一部内容が重なります。第3~5章は、達人たちが実際に行なった学び方の共通点を導き出し、効果的な学習方法を探り出します。そこからわかるのは、短期間で楽に英語が身につくような魔法はない、でも努力の仕方に秘訣はある、ということです。日本に生まれ、日本で普通の英語教育を受け、長期の留学経験もない人が、どうして英語の達人になれたのか、あなたも知りたくありませんか?

投稿日:2016年12月26日カテゴリー

2016年12月22日木曜日

 

チームテーマ「文化のしくみと解析」の中間発表


チーム「日中韓の言語文化」に続き、本日はチーム「文化のしくみと解析」にお邪魔してきました。




先の「日中韓~」はいわば個別指導方式の回でしたが、今回の「文化は~」はご覧の通り発表会スタイルで、入口には「自由に出入りして下さって構いません」のメッセージまで付してありました。

配布のレジュメ(資料)を眺めると、「美容整形で幸せになれるか」「相手を傷つけないための嘘ならついてもよいのか?」「他者との関係の中で生まれる性自認」などのテーマが並んでいます。なかなか難しそうな内容ですけれど、指導担当教員3名の専門がそれぞれ文化人類学、倫理学、哲学ですから、当然といえば当然なのかもしれません。それでも、怯まず臆さず、4年生たちは教員と丁丁発止のやりとりを繰り広げていました。頼もしい限りです。

どうぞよい卒業論文が書けますように――

投稿日:2016年12月22日カテゴリー

 

スクーリング情報(2)【考えること・表現すること】

課題図書紹介【考えること・表現すること】(担当:信太光郎先生)

人間は自分たちを他の生き物とは「違う」存在だと感じています。それは人間に独特の感じ方です(たとえばカエルのヘビに対する「違う」という感じ方とは別ものです)。一言でいえば、人間は自分たちを「ただの生き物でない」と感じているのです。人間のこうした感じ方は、たぶん他のどんな生き物もやらない(やれない)ことを現にやっていることからくるのでしょう。そういわれるとわたしたちはすぐに(いくぶん誇らしげに)人間の優れた知性や、それを駆使して作られる精巧な人工物を思い浮かべるかもしれません。しかしそれはすこし見当違いです。人間より素早く正確に考え、人間より精巧な構築物を作る生き物は珍しくありません。生き物としての人間(ヒト)は比較的に不器用です。人間がコンピューターを用いて本能以上の正確さで環境変化に適応し、さらには機械を作ってどんな動物よりも速く走り、高く飛べるようになったのは(つまり「スーパー・アニマル」になったのは)、生き物としてのそうした劣等感をバネにした努力の結果という側面があるのです。


課題図書:野矢茂樹『はじめて考えるときのように』
     藤田令伊 『現代アート、超入門!』について

ここで発想を変えてみましょう。人間が「ただの生き物でない」ことは、まさにその生き物としての「無能力」によっているのではないでしょうか。それは単なる不器用や能力不足ではなくて、他の生き物にはない「別の能力」と結びついているように思われます。この別の能力をもつことに比べるなら、他の生き物に対する優越感などは小さなことにすぎません。人間以外の他の生き物にとってすべては「生きるため」ですが(その目的に沿う限りで彼らはそれぞれに非常に有能なのです)、人間の生来の無能力は、実はその能力が「生きるため」にもはや束縛されていないことを表しています。そしてそれは「一から考える」能力と「新しいものを作る」能力に直接につながっていきます。このことはまた、人間だけが「自由」な存在であるということを意味します。

課題とした二冊はそうした人間固有の能力を問題にしたものです。一般に前者を「哲学」と呼び、後者を「芸術」と呼びますが、大切なことは、それらは人間の「人間らしさ」の成立と密接に結びついた営みだということです。みなさんにはこの二冊を通じて、「人間らしさ」とは何であるかを少し踏み込んで考えていただけたらと思います。

投稿日:2016年12月22日カテゴリー

2016年12月20日火曜日

 

総合研究(卒論)の提出まで、3週間を切りました

2016年も残すところあと10日と1日。



これは4年生にとっても、卒論提出日がいよいよ迫ってきたことを意味します。勿論、指導を担当する教員にとっても、です。

この時期は、学内のあちらこちらで卒論指導が行われています。今日は、チーム・テーマ「日中韓の言語文化」の授業を覗いてきました。お邪魔した教室では中国班が構想発表を行っており、発表者が教員と答問を繰り返していました(なお、日本班、韓国朝鮮班は、別の曜日に卒論指導を行っている由)。

中国班は今日が最終指導で、以後は卒論提出締切日まで各自がPCに向かうことになるのだそうです。クリスマスや正月の楽しみ喜びは、もう少しだけお預けかもしれません。

投稿日:2016年12月20日カテゴリー

2016年12月12日月曜日

 

2017年度 スクーリング情報(1)

言語文化学科に合格されたみなさん、おめでとうございます。

今は大学生活への期待も高まる時期かと思います。これからの4ヶ月は、大学生活にとって重要な準備期間となります。それは勉学についても、それ以外の活動についても同じです。どうぞ一日一日を充実したものにしてください。

言語文化学科では入学前の準備教育として、「スクーリング」と呼ばれるイベントを実施しています。お手元に既に資料が届いているかと思いますが、日程・場所は以下のようになっています。

日時:2017年2月13日(月)10:30-16:30
場所:泉キャンパス2号館224教室ほか

2号館はここです↓


 このスクーリングに際しては、みなさんに
①英語の単語テスト
②セミナー(言語篇、レポート2つ)
③セミナー(文化篇、レポート2つ)
をしていただきます。②③のセミナーについては、本学科のホームページで順次アップする予定の「スクーリング情報(2)」以降をご参照ください。

①英語の単語テストは、『基本語500 No. 1』(言語文化学科英語スタッフ編)の所収単語を暗記することです。『基本語500』は
http://www.ipc.tohoku-gakuin.ac.jp/izavc/kihongoreibun/index.html
から勉強してください。

スクーリング当日に確認テストを実施します。『基本語500』第1集の内容は音声付でWEB上に公開しています。個々の例文の音声へのアクセスや、基本単語を覚えたかどうかのチェックがすぐに行えます。ページを開いたら「お気に入り」に登録して毎日勉強してださい。ブラウザはインターネットエクスプローラを使用してください。ほかのブラウザではきちんと表示されないことがあります。



WEBが利用できる環境になく学習が困難だという人は、必ず言語文化学科スタッフ(金永昊(キムヨンホ) kimyh※mail.tohoku-gakuin.ac.jp )に連絡を取ってください。印刷された教材と音声が入ったCDを郵送いたします。

【単語の意味と例文について】

単語の意味を示す日本語訳は、覚えることを優先に最小限に抑えて書いてあります。日本語の表示から、それが名詞であるのか、動詞であるのか、形容詞であるのか、副詞であるのか、それともまた別の品詞なのかを意識するようにしてください。間違えやすいと思われる場合は品詞も表示しておきました。例文中でどの品詞が使われているのかを意識するようにしてください。英語は日本語と違い、一つの単語が複数の品詞で使用されることが多くあります。使われる意味も一つではありません。皆さんもこれから、それぞれの単語について「このような使い方もあるんだ」という経験をすることになると思います。それぞれの単語を自分のものにしていく土台作りとして利用下さい。

自分で勉強の仕方を工夫して効率のいい方法を見つけていくことが大事です。4月の入学まで時間を有効に使って、有意義に過ごしてください。

【確認テストについて】

2月のスクーリング時に行う「確認テスト」は以下の要領で実施します。

・問題はA、Bの2種類。
・A:例文を基本単語の箇所だけ空欄にして表示、単語の意味と例文の和訳も表示する。
・B:例文を基本単語の箇所だけ空欄にして表示、意味・和訳は表示せず、例文の音声を2回聞く。
・A、Bともに、基本単語の先頭の文字がヒントとして表示される。
・答えとして、空欄に入る基本単語のつづりを記入する。例文によって語形が変化している(時制、三単元のs、分詞、複数形等)ことに注意する。
・Aの問題を20問、Bの問題を20問、計40問出題する。
・点数が5割に満たない場合、4月におこなわれる追試の対象になる。
・テスト返却の後、成績優秀者を表彰する。

投稿日:2016年12月12日カテゴリー

2016年11月24日木曜日

 

【コラム1】「福島弁と韓国語」ー松谷基和先生ー

これから言語文化学科の先生によるコラムの連載をスタートすることになりました。言語と文化についての貴重なお話しをお届けしたいと思います。第1弾としては、韓国・朝鮮語を教えている松谷先生から「福島弁と韓国語」という原稿をいただきましたので、どうぞお聞きください。

*          *        *

今からもう20数年前のことである。私は韓国の延世大学に交換留学生として1年間留学した。当時は韓流ブーム以前の時代であり、韓国に対する世間の関心は薄く、韓国に留学する学生も少なかった。ましてや、私の通っていた国際基督教大学(ICU)は英語教育が評判なこともあって人気の留学先は欧米であり、韓国を選ぶ学生は「変わり者」であった。また、韓国に留学する場合でも、現地では英語による科目履修が想定されており、韓国語の能力は選考基準に含まれていなかった。そもそも、当時は、ICUのカリキュラムに韓国語の科目は存在せず、留学前に韓国語を学ぼうにも大学では学ぶ機会すらなかったのである。

当時の私は、こうした英語さえできれば、英語圏でなくても留学できるという制度が英語中心主義の象徴のように思われ、現地語を学ばないまま留学することに抵抗を感じた。幸いなことにICUからそう遠くない所に「アジア・アフリカ語学院」という語学の専門学校があったため、そこに通うことで、私は初めて韓国語の学習の機会を得たのであるが、今日では第二外国語で韓国語を学べる大学が多数であり、まさに隔世の感がある。

ところで、私が当時、反発を覚えていたのは、実は英語中心主義ではなく、日本語の標準語中心主義であった。私は福島市で生まれ育ち、祖父母との会話量も多かったせいか、同世代の人間の中でも福島弁が得意な方であった。しかし、当時、東京の大学に進学する地元の高校生は、上京する前から福島弁を矯正するのが常であり、福島弁は都会では隠すべきものと考えられていた。私は標準語を習得しようとする人々の努力を全否定するつもりはなかったが、その理由が福島弁を話す奴は田舎臭くて「みったぐねえ(みっともない)」という自虐的な価値観にあることを知っており、そうした価値判断をする奴こそ「みったぐねえ」と反発心を燃やしていた。実際、私は大学進学後、キャンパスで見かけた「大九州言語会」という九州出身者による「方言飲み会」の存在に刺激されたこともあり、岩沼出身の友人と「奥州連合」なる看板を掲げて、東北人同士の「方言飲み会」の立ち上げ者となった。

こうした私の「母語」である福島弁へのこだわりは、その後、意外な形で私の韓国語習得を助けることになった。というのも、韓国語(正確には「ソウル標準語」)では、一般的に単語や文章にはアクセントや抑揚をつけずに平らに(フラットに)読むことが求められるのであるが、これが福島弁に似ており、何ら違和感を覚えなかったのである。

実際、これは言語学的にも裏付けられるようである。というのも、福島に限らず南東北(仙台も含む)は、言語学的分類調査によれば、いわゆる「無アクセント地帯」に属し、その特徴は、文字通り、単語にアクセントをつけず、抑揚のない平板型のイントネーションで話すこととされる。つまり、韓国語も南東北の方言もイントネーションの基礎が共通なのである。

それに加えて、私の観察では、「あつい」を「あづい」、「なめこ」を「なめご」、「かたち」を「かだぢ」と発音するように、二音節目以降の子音を濁音化させて発音する福島弁(南東北弁一般もそうであろう)のパターンも韓国語と同様である。例えば、韓国語の「行く」という単語はスペル上では「カタ」であるが、実際には「カダ」と二音節目の子音は濁音化させて発音するのである。要は「平板型アクセント」+「子音の濁音化」という発音上の規則が、二つとも韓国語と福島弁に共通しているのである。

私が留学して間もない頃、ある韓国語の先生から「私は長年、日本語母語者に韓国語を教えていますが、松谷さんは日本語母語者が苦手とするアクセントやイントネーションにほとんど問題を感じていないようですね。どうして、松谷さんだけ、そうなのか私には不思議です」と言われたことがある。その時は自分でもあまり意識しなかったのだが、後年、私と同様に福島弁の使い手である妹が韓国に留学した際にも、全く同じことを言われたという話を聞き、やはり、これは偶然ではなく、韓国語と福島弁の間には言語学的共通性があるためではないかとの思いが強まった。おそらく読者の中にも、韓国語を聞きながら何となく濁音が多く、どこか東北弁と近いと感じたり、逆に韓国人の話す日本語が何となく東北人の訛りのように聞こえたりした経験がおありではないだろうか?ぜひとも、本学で韓国語ないし言語学に興味を持つ学生には、このテーマについて本格的に探求して欲しいものである。

さて、近年、東北に限らず、どの地域でも日常生活から方言が失われ、イントネーションも標準化されつつあると聞く。私の思いとは別に、世の中は、益々、内には日本語中心主義、外には英語中心主義に流れていき、日本語と英語ができることが「バイリンガル」と称賛される風潮も強まって行くのであろう。しかし、私が思うに、方言と日本語を話せれば、これは立派な「バイリンガル」である。そして、こうしたバイリンガル感覚の持つ人の方が、実は他言語/多言語を学ぶ上で有利な面もあり得るのである。方言に囲まれて育ち、今でも多少は方言を操れる学生諸君に伝えたい。「君、方言を捨てたもうことなかれ」と。

投稿日:2016年11月24日カテゴリー

2016年11月19日土曜日

 

東北地域韓国語弁論大会で受賞!

去る11月12日(土)は、仙台韓国教育院・駐仙台大韓民国総領事館主催による「第七回 東北地域韓国語弁論大会」が開かれました。総領事や民団関係者のような外交の第一線で活躍する方々をはじめ、応援に来てくださった多くの方々を入れると約100名の方たちが集まる盛会となりました。


 弁論大会は韓国語で5分程度のスピーチを行うというもので、内容は韓国語、韓国文化、日韓交流に関するものであれば主題は自由です。

第一部では中学・高校生部門で、仙台だけでなく、岩手県や山形県からも韓国語を学習している生徒10人が発表を行いました。第二部は成人部門で、言語文化学科3年生の野呂志緒里さんは「보이는 기술보다 우선은 자신의 정신부터(見える技術より、まずは自分の精神から)」というテーマで発表をしました。今年、韓国に旅行をした時、自分の人生を変えるような貴重な出会いがあり、その経験に基づいての発表でした。同じく言語文化学科3年生の庄司有里さんは「한국인의 정(韓国人の情)」というテーマで、1年間韓国の梨花女子大学に交換留学に行った時に感じた韓国人の「情」というものに関する発表でした。

そして、野呂さんは銅賞、庄司さんは銀賞という好成績を収めました。


出場者たちは、これだけの長い韓国語の文章を、しかもたくさんの人の前で話したことがなく、少しは緊張したようでしたが、それでも日頃の学習成果を存分に発揮することが出来ました。出場者にとってはいい経験になったと思います。


それでは、野呂さんからのコメントをもらいましたので、どうぞお聞きください。

*      *      *

ヨロブン、アニョハセヨ〜

今回、東北地域韓国語弁論大会に参加できたこと、自分にとって、とても良い経験になったと思います。

この大会に出るようになったきっかけは、私が出たいと思って出たわけではなく、韓国語の授業の先生に声をかけられ、大賞をとればソウル行きの航空券がもらえると聞き、やってみようではないかという思いで、出るようになりました(笑)

みなさんは、大学生活、楽しくお過ごしですか?私は、大学生1,2年の時、どうしたら充実したキャンパスライフを送れるのか、ずっと疑問に思って過ごしてました。大学の授業は楽しかったけれど、それだけで満足感を得ることはできませんでした。そんなある時、韓国に旅行しに行った時、すごく良い出会いがあって、私が悩んでいた悩みの答えをすっきりするぐらい得るようになりました。今回、そのことをみんなにも共有したくて、弁論の題材にさせていただきました。

大会当日はとても緊張しましたが、いつもお世話になっている金永昊先生、松谷基和先生からたくさんのご指導いただいていたので、自信を持って発表することができたと思います。恵まれた環境の中で、弁論大会に出場できたこと、感謝です。

次の機会に、少しでも関心のある方は、自分の思いを韓国語で伝えてみてはいかがですか^^?自分が成長するのにとても良い経験になると思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。言語文化学科3年生 野呂志緒里

*            *          *

私は交換留学生として韓国の梨花女子大学に一年間留学していました。留学をすることは高校生からの夢だったので、韓国で過ごした一年間はとても充実していました。梨花女子大学は韓国でも有名な女子大学の1つで、様々な学科があるため興味のある授業をいろいろ受ける事もできました。更に梨花女子大学は一学期におよそ400人ほどの留学生を受け入れてます。そのため一度にたくさんの国の人達とも友達に
なることもできました。しかし、後悔してることといえば積極的に韓国語を喋らなかった事です。当時頼りにできる友達もいませんでしたし、思ってたより校内で韓国人の友達を作ることができませんでした。そのため韓国語を喋る機会があまりなく、日本人や外国人の友達と遊ぶことが多かったです。留学中にもっと韓国語を頑張ればよかったと少し後悔していたことが、今回弁論大会に出場した理由です。一年間の留学をしただけで終わらせるのではなく、何か次に繋げられるものをやらなくてはと思い、自分が韓国で体験したこと、感じたこと、韓国の魅力などを弁論大会を通して伝えたいと思いました。私は半年を大学の寄宿舎、半年を下宿で過ごし、下宿先のおばさんの話を中心に韓国人特有の情について話しました。弁論大会に向けて練習する際には韓国語担当の金永昊(キムヨンホ)先生、松谷先生に的確なアドバイスを頂き、その他にも韓国で出会った韓国語の先生や韓国人の友人達に発音の練習など手伝ってもらいました。大会当日はたくさんの方々のおかげで、会場に来ていた方にも楽しく聞いてもらうことができ、自分自身も堂々と楽しく話すことができました。結果的に銀賞という素晴らしい賞を頂くことができ嬉しい気持ちでいっぱいですが、自分のためにたくさんの方々が協力し応援してくれたことと、韓国語の勉強って楽しいな、韓国が大好きだなと改めて感じることができ、弁論大会に参加して本当に良かったと思います。まず何かに挑戦することから始まると思うので言語文化学科のみなさんもいろいろなことに挑戦してみてください。これから私もこれにとどまらず、向上していけるように努力していきたいです。

言語文化学科3年生 庄司有里

投稿日:2016年11月19日カテゴリー

2016年10月8日土曜日

2016年9月30日金曜日

 

第一回映画講座『雨月物語』(金永昊先生解説)が終わりました

去る9月29日(木)は泉キャンパス図書館の2階視聴覚室にて、言語文化学科の金永昊(キムヨンホ)先生の解説による後期第一回目の映画講座が行われました。今回の作品は、溝口健二監督の『雨月物語』(1953)でした。学内外の諸行事と重なり、多くの方が参加することは出来ませんでしたが、その分、一人一人と深いところまで話し合うことが出来ました。参加出来なかった方々のために、一部の模様をお伝えします。


まず、


映画上映前の約20分間は、上田秋成と『雨月物語』、そして溝口健二監督と映画『雨月物語』についての基本的な説明、そして映画のどのような点に注目して見ていただきたいかについての説明がありました。

●映画鑑賞前の解説

1.小説『雨月物語』は9編の怪談から構成され、全体を貫くテーマは「執着」「欲望」である(長島弘明、2016)。その内容は、権力・金銭・女性・男性など様々で、秋成はそれを通して「人間とは何か」を追求している。溝口は、『雨月物語』のうち、「浅茅が宿」「蛇性の婬」を下敷きとして「執着」「欲望」というテーマを忠実に受け継ぎながら、男性の「執着」「欲望」により犠牲になる女性を描いている。このように女性への眼差しは溝口監督映画のテーマであるが、それでは、『雨月物語』の中で男性は何に執着し、女性はどのような形で犠牲になるのかを注目して見ていただきたい。映画が原作の小説をそのまま忠実に再現しただけなら、高い評価は得られないようである。例えば、黒澤明の『羅生門』は芥川龍之介の原作から著しく離れているが、小説の中で語り得なかった(あるいは語るつもりのなかった、当然過ぎて語る必要のなかった)ことについての解釈、あるいは解決を映画の中で示したからこそ、原作と並んで日本映画史に残る傑作になったのである。それでは、溝口は原作についてどのような解釈を下しているのかもこれからの説明を聞きながら考えていただきたい。

2.『雨月物語』「浅茅が宿」は、中国明代の『剪灯新話』(1421)所収の「愛卿伝」、そして浅井了意の『伽婢子』(1666)所収の「遊女宮木野」などを原作としている。映画『雨月物語』の「宮木」は「浅茅が宿」の主人公宮木から由来したものであるが、これは「遊女宮木野」の「宮木野」からヒントを得たものである。

3.原作「浅茅が宿」で勝四郎は、生業の農作を嫌がっていた者で、貧しくなったため、残る田まで売って一攫千金の絹の商いをするべく京へ向かう。ここで問題になるのは、勝四郎が「残る田まで売って」京都に向かうという原作の設定は、故郷に残る宮木の生活が全く考慮されていない。『雨月物語』は全体を通して男の視点・男の論理で語りが進められているため、宮木の生活の苦しさなどは思慮の範疇になかったと思われ、具体的に書く必要もなかったと思われる。また、どうして勝四郎は宮木を連れて行こうとしなかったのか、についても疑問が残る。それでは、溝口はこの部分をどのように解釈したのか。注意して見ていただきたい。

4.原作「浅茅が宿」で、勝四郎は京で絹の商いで大金を稼ぐ。しかし、帰国の途中、稼いだ金を奪われる。そして、関東の戦乱を聞いて、妻は死んだものと思い込み、また京の方面へ戻る。この部分は「浅茅が宿」を解釈するうえで最大の問題点の一つである。つまり、①勝四郎は何を根拠として、妻は死んだものと思い込んだのか、②早く故郷に帰らずにどうしてまた京の方面へ戻ったのか、③京都で過ごした7年間という時間は長過ぎる、という点である。それについても「浅茅が宿」では具体的な答えが提示されていない。あまりにも当然過ぎるからであろうか、それならどうして当然なのか。お金を奪われた時、妻は死んだものと思い込んだのは、「大金を稼いで来るぞ」と大口を叩いた勝四郎の男としてのプライドにより、無意識のうちにそういうふうに考えるようになったのかもしれない。そして、もう一度、お金を稼ぐため、再び京都に向い、7年間も戻って来なかったのであろう。このような原作の問題について、溝口は映画の中で実に見事な解釈を下す。つまり、「男は女性に会ったのだ」「女性の捕らわれたのだと解釈するしかない」「しかも、その女性は亡霊である」と。そして映画『雨月物語』は「蛇性の婬」の世界を取り入れながら拡大されていく。

5.原作「浅茅が宿」では、勝四郎の帰郷後、宮木の死について語る翁が登場する。この場面は、一見あまり特徴のないように見えるかもしれないが、実はとても重要な意味が込められている。その場面についても注目して見ていただきたい。

 ●映画鑑賞後の話し合い

<金先生>源十郎は亡霊の「若狭の姫」と恋に落ちるが、「若狭」は今の福井県である。その他に、「若狭」は「若さ」をかけた言葉で、名前自体に「若狭の姫」が人間ではないことをほのめかしている。また、若狭の姫が住む「朽木屋敷」も「木」が「朽ち果てている」、つまり怪異を予兆する仕掛けが込められている。そして、「浅茅が宿」での「絹」の商売、映画で焼き物を売り「絹」を買う源十郎、更に映画の主人公は田中「絹」代であることで、「絹」がキーワードとして利用されて(?)いるが、これは偶然の一致であろうか(笑)。

<金先生>どの場面が最も印象深かったですか。

<学生1>源十郎が出稼ぎに行ってお金を儲けた時、その服を妻宮木に着せてあげることを想像する場面です。



<金先生>確かにその場面は大変興味深くて、面白い場面である。その直前に源十郎は若狭の姫の顔を見て、その美しさに驚くのだが、その後、源十郎は服を妻宮木に着せてあげることを想像するので、その時点までは源十郎は妻宮木のことを考えていたのである。それでは、「いつ」そして「なぜ」源十郎が若狭の姫に心を奪われたのであろうか。それは、朽木の屋敷で、若狭の姫が源十郎の外見や人間性について褒めたからではない。源十郎が作った焼き物の素晴らしさ、そこにある芸術性について褒め讃えた時、源十郎は心を奪われたのである。それまでは金のために、豊かな生活のために仕事をして来た源十郎にとって、源十郎の能力について褒めた若狭の姫のこの言葉はまさに天才的な誘惑術である。



<金先生>その他にどの場面が最も印象深かったですか。

<学生2>琵琶湖で舟を漕ぐシーンです。


<金先


生>琵琶湖を進む舟の幻想的な描写は、映像論としてすでに多くの賛美があり、日本映画史においても、浜辺での宴会の場面と共に、名場面として高く評価されている。琵琶湖を進む舟で宮木は「よかった、よかった。陸で行けば今頃命はなかった」とほっとするが、これは言うまでもなく、後で陸地に残される宮木の死を暗示する伏線である。因みに、浜辺での宴会の場面で、源十郎は「魔性の女でも構わない」と言う。この時、源十郎はすでに若狭の姫が人間ではないことを気付いているが、それを無意識のうちに拒否している。つまり、正常に判断する能力を失っている状態である。また、宴会の時、「ここが天国だ」と言う場面のすぐ後に、宮木が敵兵によって殺される場面が続くのだが、源十郎が経験している「天国」のような生活は宮木の「地獄」のような生活の代わりに得たものである。

<金先生>一番最初の質問として出した、どのような男性の執着、女性の犠牲が描かれていますか。

<学生3>金銭に対する源十郎の執着、そして権力に対する藤兵衛の執着が描かれ、それぞれの妻が死んだり、遊女になったりします。

●映画を見る前に出した課題に関する解説

①金先生が考えた印象深かった場面とは


私は妻
子を残して、夫婦が別れる場面を選びたい。この場面は、まさに溝口の天才的な力量・直観の鋭さが存分に表現されていると思ったからである。この部分について、原作の「浅茅が宿」のほうを見てみると、勝四郎は「いかで浮木に乗りつもしらぬ国に長居せん。葛のうら葉のかへるは此秋なるべし。心づよく待ち給へ」と言う。ここで、葛は秋の七草の一であり、秋の季語である、そして葛の葉が風によく翻るところから秋の季節感を表す表現で、「葛の葉が風に裏返るこの秋には、きっと帰って来る」の意として、解釈して何のおかしくないところである。しかし、この文章の和歌・俳諧的技法を見ると、「裏返る→恨み・裏切る」を象徴し、その他にも「葛→屑」「帰る→心が翻る」など、この文章の表には「戻って来る」と言いながら、そこに隠された修辞としては「宮木はウラ切られる」「宮木はウラみを残す」「固い約束はクズになる」「夫の心はカエる」に繋がることから、「宮木の死と勝四郎は戻って来ない」ことが伏線として暗示されている。そして、溝口は言外に含まれた内容まで実に見事なまでに再現していたのである。

映画の方を見ると、「10日もかからない」「我慢しろ」「気を付けてくださいよ」などと言う会話及び状況は、どこを見ても「源十郎は戻って来ない」「宮木は死ぬ」とは言っていない。しかし、先に説明したように①「陸で行けば今頃命はなかった」とほっとするが宮木の言葉は、宮木の死を暗示する伏線であり、②夫を送り出す宮木の表情、③映画全体を通してほとんどセリフもなく、無表情の息子源市がこの時だけは大きな声で無事に帰って来るよう叫ぶこと、しかも長い時間をかけて(長回し)表現されている、④背景音楽としては太鼓を叩くことによって、映画を見る人を緊張させること、⑤宮木と息子に対する長回し・トラッキングの撮影技法、を通して、映画を見ている人を不安に思わせ、「源十郎は戻って来ないだろう」と思わせている。つまり、溝口は、会話と状況としてはどこにも「源十郎は戻って来ない」とは言っていないが、映画全体の撮影技法を駆使して、見ている人が「源十郎は戻って来ない」ことを予感させ、見事に秋成の意図を見破って表現させたのである。

それでは、溝口は「浅茅が宿」で「葛のうら葉…」の文章の本当の意味が分かったため、映像として忠実に表現出来たのであろうか。【資料7】で挙げた鵜月洋『雨月物語評釈』(角川書店、1969)を見ると、『玉葉集』の和歌の用例「秋風と契りし人はかへり来ず葛のうら葉の霜がるるまで」を紹介しており、「秋風」「契る」「葛のうら葉」の単語が「帰って来ない」和歌として利用されていることを挙げてはいるものの、それが「浅茅が宿」の解釈にまでは至っていない。実は、この部分の本当の意味は、高田衛(1972)、木越治(1995)、金京姫(2006)によって少しずつ解明されたもので、溝口が映画を作った1950年代の『雨月物語』の研究レベルとしては、秋成の本当の意図が絶対分かるはずのないところである。それでは、溝口はどうして「葛のうら葉…」に込められた秋成の真意まで見破って表現出来たのであろうか。それは、まさに天才としか言いようのない、溝口の映画監督としての「直観」ではないかと思われる。

②女性像の変化

中国の原作は、ご紹介したあらすじから分かるように、「貞節を守る女性」が理想的な女性として内容の中心になっている。とても明代の中国的な発想であろう。それが、秋成の「浅茅が宿」では、「真間の手児奈と比べても宮木の哀切は深いものである」と褒め称えられる。ここで登場する「真間の手児奈」は『万葉集』を代表する処女で、秋成はここで国学者としての自分の知識を何とか生かしたかったのではないかと言われている。それでは、溝口が描いた宮木像はどういうものであろうか。中国の原作や秋成の『雨月物語』では亡霊と一夜を過ごす、つまり夫婦関係が持たれたことを暗示させるような表現がある。しかし、映画を見ると、①源十郎はお酒に酔って子供の横に寝るため夫婦関係が持たれたことは想定出来ない、②宮木は源十郎に布団をかけてあげ、源十郎のくつを整理する、③源十郎の食事を用意し、「お鍋も食べごろに煮えております」と話す、④子供の食べ物を守るため敵兵に殺される、などの状況から「母」としての宮木像が描かれている。ここで話は変るが、先に提示した質問、つまり、原作で勝四郎はどうして宮木を連れて行かなかったのかという疑問に対する答えとして、溝口は原作にはない子供源市を設定することによって、①子供がいるから宮木は故郷に残らなければならないという必然的な理由を設定することによって解決し、そして②母としての宮木像を見事に描くことが出来たと思われる。

③宮木の死について語る翁

この部分が中国の「愛卿伝」から始め、日本の古典では『伽婢子』の「遊女宮木野」、『雨月物語』の「浅茅が宿」に続き、映画『雨月物語』にも受け継がれている理由はなぜであろうか。各作者はどうしてこの部分に共感して表現したのであろうか。今、紹介しているパンフレット(「連続講座 震災と文学」)を見ると、東雅夫先生がうちの大学に来られ、「震災と怪談の文学史」というテーマで講演会を行ったが、その中で、震災の後、生き残った方々が亡くなった方々について語り合うこと、それが亡くなった方々の魂を慰める鎮魂・慰霊である、との趣旨の話をしたことを記憶している。その話を聞いた時、私は映画『雨月物語』、そしてその先行作品のことを思い出した。これについて、資料から分かるように、澤田瑞穂氏は『中国の伝承と説話』という本で、『剪灯余話』「連理樹記」の例を挙げながら次のように述べている。

至純の夫婦愛もしくは未遂の悲恋に殉じた男女の墓に連理樹が生じ、その樹に鴛鴦が棲むというのは、いわゆる植物化生や動物由来の民間伝承に根を持つばかりでなく、またそれを語り伝える無名の人々が、その悲運の男女に捧げるせめてもの鎮魂の供物でもあった。そうした眼前の樹木や動物に対して、その化生を証言し、しみじみと追懐することこそ、死せるものの遺恨を慰める途であると信じたがために、民間伝承の殉情悲恋物語には、その結末は決まってこのモチーフが持ち出され、少しでも受難の惨酷さを緩和し美化しようとする。いわゆる吐瀉の後の一服であり、人生の悲運に対する補償でもある。それは説話伝承の文学的技巧というだけでなく、実は冤魂鎮定の呪術としての説話の民俗的機能をも無意識のうちに継承しているのである。



このような澤田氏の見解は、映画『雨月物語』を理解するうえで傾聴に値する重要な話である。つまり、映画『雨月物語』では、悲劇的な人生を生きた宮木に対して、「死せるものの遺恨を慰める」と同時に、「少しでも受難の惨酷さを緩和し美化」するために、宮木の死を伝える翁が登場し、塚の前で祈りを捧げる息子の姿を登場させたのである。そうすることによって、宮木の魂は救われたのであり、これはまさに理屈では説明出来ないものの我々が「説話の民俗的機能」として「無意識のうちに継承して」来たものである。

<これからの課題について>

映画には原作にはない人物として、息子の源市が登場する。セリフはあまりなく、ほとんど無表情で登場するが、母としての宮木像の形成、そして源十郎が宮木を残して出稼ぎに行くしかない必然的な状況を作り出したことで、大変大きな意味があることは先に述べた。

 その他に、藤兵衛と阿浜の物語が追加されているが、これは【資料9】に挙げた佐藤忠男『溝口健二の世界』(筑摩書房、1982)の指摘通り、「甘い結末」「ひどくつまらないもの」と評価されている。しかし、果たして藤兵衛と阿浜の物語は映画『雨月物語』の中では脇役に過ぎないのか、つまらないものに過ぎないのか、いや、映画の中ではきっと重要な意味を持つかもしれない。このように映画として、或は文学作品として出されてしまうと、その解釈は作者のものではなく、読者のものになる。どのような新しい意味を与えることが出来るのであろうか。ここに集まっていただいた学生たちが、この部分について関心を持ち、卒論を書いていただければ、きっと素晴らしい卒論になれると思われる。また、まるで能面のような若狭の姫の表情、朽木の屋敷の構造、背景音楽などで能の手法がたくさん織り込まれている。どのような技法が使われ、いかなる意味を持つのであろうか、考えてみても面白いと思われる。

<参考文献>

・鵜月洋『雨月物語評釈』(角川書店、1969)

・勝倉寿一『雨月物語構想論』(教育出版センター、1977)

・木越治「くり返しの修辞学―「浅茅が宿」試論―」(『秋成論』所収、ぺりかん社、1995)

・金京姫「「吉備津の釜」試論―俳諧的連想に注目して―」(『近世文藝』第84号、2006)

・金永昊「アジア漢字文化圏の中の『伽婢子』―「遊女宮木野」の翻案の特質を中心に―」(『人間社会環境研究』18号、金沢大学大学院人間社会環境研究科紀要、2009)

・―――「『剪灯新話』「翠々伝」の影響の諸相―日本・朝鮮・ベトナムの翻案作が求めたもの―」(『中国古典小説研究』14号、中国古典小説研究会、2009)

・佐藤忠男『溝口健二の世界』(筑摩書房、1982)

・澤田瑞穂『中国の伝承と説話』(研文出版、1988)

・重友毅「雨月評論(二)「浅茅が宿」について」(『近世文学史の諸問題』所収、明治書院、1963)

・高田衛「幻語の構造―雨と月への私注―」(『別冊現代詩手帳』第1巻第3号、1972)

・田中厚一「「浅茅が宿」「蛇性の婬」から映画「雨月物語」へ」(飯倉洋一・木越治編『秋成文学の生成』所収、森話社、2008)

投稿日:2016年9月30日カテゴリー

2016年9月12日月曜日

 

映画講座(言語文化学科教員有志主催)案内

今年から泉キャンパス図書館で映画講座(シネマ・ラ・フォンテーヌ)が行われています。前期分4回は、毎回、言語文化学科を中心に、学生10-20人、教職員も数人ずつ来ています。上映後の話し合いでは、興味深い意見がたくさん出ていました。

さて、後期のシネマ・ラ・フォンテーヌの予定が決まりましたのでお知らせします。ぜひ、奮ってご参集ください。

●場所:泉キャンパス図書館 2階視聴覚室
●日時:下記の日時、全て15:00より

1.9月29日:溝口健二『雨月物語』(1953) 解説:金永昊先生





2.10月20日:メイベル・チャン『誰かがあなたを愛してる』(1987)解説:塚本信也先生



3.10月27日:カン・ジェギュ『シュリ』(1999)解説:松谷基和先生



4.11月24日:西川美和『蛇いちご』(2003)解説:石塚秀樹先生



5.12月1日:マービン・ルロイ『犯罪王リコ』 解説:宮本直規先生



6.12月8日:イグナシオ・アグエロ『100人の子供たちが列車を待っている』(1988)『リュミエール兄弟 シネマトグラフ博物館』解説:小林睦先生


7.1月19日:ベ


ルナルド・ベルトルッチ『ラストエンペラー』(1987)解説:山崎冬太先生